建武の新政
後醍醐天皇による政治、建武の新政が始まります。
この政治は公家や貴族をひいきしたので、武士からは人気のないものでした。
特に一緒に鎌倉幕府を倒した足利尊氏として面白くありません。
尊氏は後醍醐天皇を京都から追い出し、彼を天皇から引きずり下ろします。
そして京都に新しい天皇を立てました。
しかし後醍醐天皇は吉野に逃れた後も、自分が真の天皇であると主張しました。
それだけではなく、そこに新しい朝廷(南朝)を作ってしまったのです。
京都の朝廷(北朝)と合わせて朝廷が2つあるというこの迷走期を南北朝時代と呼びます。
南北朝時代は時期的に室町時代ともかぶっており、約60年間も天皇が2人いる時代が続いたのです。
室町幕府
1338年、足利尊氏は京都の天皇に征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開きました。
足利尊氏という人物はもともと話すことはあまりありません。
どちらかと言うと、幕府を開くまでの方が動きが多かったという印象です。
室町幕府はなんといっても3代将軍の足利義満です。
彼のとき最盛期を迎えました。
義満は中国の明と貿易を始めます。
当時の日本海には海賊が多くいたため、区別のために貿易船には合い札を持たせました。
この合い札は勘合と呼ばれたため、この貿易は勘合貿易と呼ばれました。
そして外交政策として、鹿苑寺金閣を建造しました。
全面を金箔で装飾しており、富の象徴です。
金閣" />
豪華絢爛な見た目には、理由があります。
金閣は政治を行う場所であると同時に、外交の場でもありました。
各国の首脳たちに天皇よりも自分の方が権力を持っているというメッセージを向けていたのです。
関東地方の中学生は修学旅行で見ることができますが、700年以上たった現在でも、一度見たら忘れないほどの衝撃を私たちに与えます。
この優雅で華やかな文化を北山文化と呼びます。
それともう一つ、南朝という謎の朝廷がありましたよね。
義満は南朝を北朝に統一しました。
これにより南北朝時代が終わります。
応仁の乱
8代将軍足利義政は政治に無関心な人物でした。そのため、
実際の政治は妻の日野富子が行い、義政は別荘で歌を楽しんでいました。(日野富子は日本三大悪女の一人に数えられています)
足利義政が建てた別荘というのが、慈照寺銀閣です。
名前こそ金閣と対になっていますが、雰囲気はまるで異なります。
外装は銀塗ではなく、普通の木造建築です。内装もたたみやふすまがある和室がメインであり、心落ち着く空間となっております。
その後の日本住宅の先駆けとなったこの造りを書院造と呼びます。
銀閣に象徴される質素で堅実な文化を東山文化といいます。
室町幕府は義政が亡くなった後、最大のピンチを迎えました。
もともと細川氏と山名氏という守護大名がいました。(この時代、有力な守護は守護大名と呼ばれました)
将軍家はこの両家の抗争を利用して、後継ぎ争いを起こしたのです。
そうすると、因縁に因縁が絡みつき大変。途中で大名の方は解決したのに、戦乱は終わりません。
実に11年もの間、京都は戦乱の地になったのです。
この戦乱を応仁の乱と呼びます。
世の中は醜い争いの連鎖であるという皮肉をこめ、「人の世むなしい(1467年)応仁の乱」と覚えましょう。
織田信長
室町時代は全体を通して、支配力はそこまで強くありませんでした。
そのため各地で有力な守護大名が独自の政治を行っているという状態でした。
この守護大名が狂暴化したのが戦国大名です。
武力で上の地位を勝ち取ってやろうという「下剋上」の風潮が広まったのです。
戦国大名のなかでもとりわけ狂暴だったのが織田信長です。
彼の生まれは中堅の戦国大名でした。しかし、類まれな戦の才能で並みいる強敵を倒しまくり、あと一歩で全国統一まで突き進んだ人物です。
子どもの頃の彼は大変自由奔放な性格をしており、織田家のうつけもの(=大バカ者)と言われていました。武芸の稽古など一切せず鷹取理に明け暮れ、父の葬儀にも遊び着のまま位牌に砂を投げつけて帰ったほどです。
しかし、そんな彼を変えたのが家臣の自害です。家臣は信長を諫めるために命を絶ちました。
これにより目を覚ました信長は、まず自分の隣を支配していた強家、今川義元を倒します。
そこで人質だった徳川家康を確保し、鷹取りで出会った豊臣秀吉を強制的に家臣にして基盤を固め、破竹の勢いで進軍します。
15代将軍足利義昭に恩を売って京都入りを果たすと、今度は義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼしてしまいます。
こうして室町時代はあっさり終わります。
また信長は仏教勢力には容赦ありませんでした。
女・子供もまとめて、自分に従わない寺院を山ごと焼いてしまいます。
寺を焼くというのは一発で地獄に落ちる行為であり、戦国大名ですらだれもできないことでした。
うーん、時代が違ったらこいつは世紀の大犯罪者だ・・・。
鉄砲の伝来
この時代、西洋では大航海時代に突入し、海外に植民地を探し求めていました。
そんな経緯があって、種子島にポルトガル人が来航しました。
彼らが持ってきた中で信長が特に関心をもったのが鉄砲です。(鉄砲といってもピストルではなく、火縄銃と呼ばれるモデルです)彼は初めて鉄砲を見たとき「これからは鉄砲の時代になる」と確信しました。
仏教勢力が大嫌いだった信長はキリスト教の布教を認め、その代わりに鉄砲技術を熱心に学びました。まさにウィンウィンの関係です。
実際のところ、他の戦国大名も鉄砲には関心がありました。しかし、弾を補充する手間や機動性を考えた場合、まだまだ実用性は低いと判断していたのです。
しかし信長によって鉄砲は早くも歴史の表舞台に登場します。
戦国最強の騎馬を誇る武田軍との戦い。
既に大将の武田信玄は亡くなっていましたが、依然勢力としては最大でした。
この絶対に負けられない大一番に彼は鉄砲を使用します。
作戦はこうです。
@まず柵を作り、3つの部隊を編成する
A1の部隊は長槍隊。敵を柵から長い槍で攻撃し、こちらへ近づけない
B後ろに控えていた2の部隊が交代の合図とともに前列へ出て、柵から銃口を向け砲撃します。そして合図とともに後ろへ回り、弾を補充。
B間髪を入れずに3の部隊が砲撃。
この作戦で織田徳川連合軍は武田軍を殲滅しました。
鉄砲が初めて有効活用されたこの戦いを長篠の戦いといいます。
楽市楽座
こうして織田信長は戦国大名の中でbPの地位を確立し、天下統一の拠点として安土城を建築します。
戦国武将が作る城にはある特徴があります。
城の屋根の両サイドに、鯛がひっくり返ったようなモノが取り付けられています。
これは天守閣と呼ばれ、自分の力を壮大に見せる意図があります。
安土城に代表される戦国の文化を安土桃山文化と呼びます。
信長は戦のみならず商売にも才能がありました。
強い国を作るためには、商業が盛んでなければならないという、先見性ばっちりの判断によって城下町を免税にします。
これが楽市楽座。
安土で商売をすると儲かるので、織田信長は商工業者からはとても人気がありました。
このような数々の伝説を残したレジェンド信長ですが、なんと天下統を達成することができませんでした。
理由は家臣の裏切りです。
日ごろから虐げていた明智光秀は信長を死ぬほど恨んでいました。
明智光秀は信長に命じられた戦に向かう途中だったのですが、「敵は本能寺にあり!」という有名な名言を放ち、くるっと進路を変えます。
行先は信長がいる本能寺。
さすがの信長も気付いた時はすでに遅し。
寵愛していた森蘭丸に、「私の首、服、髪の一本までもこの世に残すな!」と言って炎の中で舞いながら死んで行きました。
人生50年 下天の淵をくらぶれば 夢幻のごとくなり
信長辞世の句です。
不思議なことに、信長に関係する遺品は一切見つかりませんでした。
森蘭丸が最期まで面倒を見たのかもしれませんね・・・。
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